2015/12/25

16th提言・その2 ~“Tuttiへの対応スキル向上”について

 
 
 たいへん長らくお待たせしました。気がつけば2015年ももう終わり。なんてこったい(^_^;)そんなこんなで「16th提言・その1~“基礎練のススメ”」の続編を。例によって、長文です。題して「【vio】16th提言・その2 ~“Tuttiへの対応スキル向上”について」、タイトル自体がすでに長い。取扱いにはご注意を。
 では最初に、vioに限らず多くのアマチュア音楽団体のTuttiの現場で日常的に起きている現象を整理してみます。
 
 まずは指揮者の視点。Tutti=全体練習であり、全員で合わせる場という前提から、「音程が…」「指回しが…」「リズムが…」といった個別事情には少々目をつむりながら練習進行していくことになります。目指すのは、個々の技術向上ではなく全体の音楽性向上。
 一方、個々奏者の視点。個人練習で弾けていない箇所は、全体練習でも当然弾けません。それでもTuttiは進むので、なんとかゴマかしながら参加することになる。結果、音楽性についてはうわの空、あるいは意識しようにも個人的な技術事情が気になって集中しきれないことも。
 
 このように、Tuttiにおける指揮者と奏者の間には、大なり小なり“化かし合い”のような状況が存在することが多々あります。コトの善し悪しは別として、それがまぁ現実です。ともあれ留意しておきたいのは、“化かし合い”が文字通り“バカ試合”にならないよう努めることです。ここで言う“バカ試合”とは、技術的側面に少々目をつむり練習が進むのをいいことに、ゴマかし具合がエスカレートしていく状況のことを指します。陰に隠れてコッソリ舌を出す感じ…と言えばわかりやすいでしょうか。
 こういった現実を踏まえて、ではvioでのTuttiに対応していくためには、どのような視点・姿勢、あるいはマナーが必要なのか?以下思いつくまま綴ってみます。いずれも非常に大切なことですので、一言一句読み飛ばさないつもりで、キチンと腹に落としてTuttiに参加してください。
 

 【個別事情の取扱いについて】

 
 まず第一に、いつも言っていることから。
全楽団員それぞれに悩ましくも存在する“弾ける・弾けないの個別事情”は、Tuttiの場ではすべてキレイさっぱり忘れてください。vioでは“弾けないことは罪ではない”という前提条件を共有・徹底しておくことを特に重視しています。信賞必罰じみた雰囲気を介在させず、劣等感を抱かせることを避ける。ここを最重視し、楽団風土として定着させる伝統があります。
 なので、弾けないことを免罪符にして隠れたり、縮こまらなくてもいい。むしろ弾けないことをさらけ出す勇気を持ってほしい。大丈夫、命までは取られません(笑)。それ以前に、すぐとなりの奏者もおおかた似たり寄ったりの個別事情を抱えています(爆)。弾けていないという事実を隠そうとしている限り、合わせることの歓びを味わうことは叶いませんし、全体アンサンブルの向上も未来永劫叶えられません。ここは特に強調しておきたいところです。
 
 で、奏者が弾けていない個別事情をさらけ出したその後は、Tuttiでの責任所在はすべて指揮者の進行如何にかかってきます。弾けていない奏者がいかにモチベーション高く効果的かつ適切にアンサンブルに加わるべきか頭を悩ますのは、奏者自身ではなく指揮者です。たとえば、弾けていない奏者が自分の演奏に無理にこだわるのではなく、各小節の1拍目だけとか弾けるところだけ参加するなど工夫し、全体アンサンブルを壊さないような進行を目指す。同時にすべての楽団員それぞれに参画意識を持たせ、毎回の練習後にそれぞれが達成感・充実感を持ち帰られるような進行を目指す。要は、弾ける・弾けないの単純な二元論に帰結させるのではなく、個々奏者がそれぞれに本番までの日数を逆算しつつ自宅練習で追いつく努力を重ねられるよう、前向きな練習進行を企図する。これらすべてが指揮者の責任・課題であり、奏者はそれを受け入れ向上していけばいいだけのことなのです。個別事情に向き合うのは、Tuttiではなく、あくまでも個別の場ですから。
 
 くり返しますが、vioでのTuttiにおいては、弾ける・弾けないといった個別事情は一切問いません。そこが問題なのではなく、弾けない現実があるならばそれを受け容れた上で、いかにTuttiを効果的に進行させていくか?もはやそれは奏者の問題ではなく、指揮者の問題です。見方次第では技術無視のスタンスにも思えますが、これは弾けない者を甘やかすためではなく、むしろ逆で、弾けない者のペースに合わせていてはキリがない、というシビアな姿勢からくるものでもあります。ある種“取捨選択”して練習進行していくわけです。指揮者は個別事情をケアするのではなく、全体アンサンブルをケアします。Tuttiの目的は、全体アンサンブルの音楽性向上。ですので個々奏者は個別事情を全体練習の場に持ち込まず、Tuttiに参加する以上はTuttiが目指す目標地点に共に向かっていくことが何より重要です。
 そもそもが、初級者と熟練者が共存しながら進めるTuttiです。となれば、Tuttiのレベルを弾ける人に合わせるか?弾けない人に合わせるか?明確にしておくことが必須となります。以上みてきたように、vioの場合、基本的には弾ける人のレベルに合わせる方針を取ります。必然的に毎回のTuttiでかかる負荷量は、奏者それぞれに異なります。受け止め方は個々レベルにより大きかったり小さかったりするでしょう。初級レベルの楽団員ほど、負荷量が大きく感じられるのは当然であり、感じるプレッシャーも大きくなり、課題が多くなります。
 
 ここで重要なのは、そういった負荷・プレッシャー・課題などを、どこで解消していくのか?当たり前の話ですが、Tuttiの場で解消しようとはしないでください。vio全体視野からすると非生産的ですし、せっかく集まってきてくれた他のTutti参加者に対して失礼です。個別事情については、自宅練習その他の場で、個々それぞれにキチンと向き合ってきてください。なので、vioのTuttiでは技術的課題をあまり取り上げません。その分、個人責任で解消に努めていただくことを期待しています。要は、課題の棲み分けです。
 
 ただし、誤解のないように補足を。
 
 ヨソがどうかは知りませんが、vioでのTuttiの目指す方向性については、実は大別して2つあります。これまで触れてきた音楽性向上と、もう一つは技術向上です。普段よく使っているコトバで言うならば、前者が「創り込み」、後者が「訓練」です。
 基本的には、Tutti=音楽性向上を目標とする場ですが、諸事情からトレーニング的な反復訓練を避けて通れないこともあるでしょう。その際は、弾けない箇所をモノにするために、イヤ~な技術的訓練を強いることになります。けど、ご安心ください。技術的訓練の反復回数は、原則2回きりです。2回やってできないことは、おそらくはその場で解消しません。3回目以降は、自信やヤル気をそぐ効果しか生まない、との信条が根底にあります。
 大切なのは、ここに甘えてしまわないこと。反復訓練は2回で終了しますが、終了=課題を克服できた、というワケではありません。その場合は、もれなく宿題にまわります。子供の頃宿題をやった方・やらなかった方それぞれあるでしょうが、みなさんもう立派な大人ですから、vioの宿題にはキチンと向き合っていただきます。そして、これもまた重要なことなのですが、vioの宿題に明確な「答え」=結果はありません(問われません)。最低限「姿勢」=プロセスを経ていただければOKです。結果が出せたら、みんなで喜び合いましょう。姿勢だけで終わっても、健闘を称え合いましょう。…ともあれ、全体練習の場で弾けないところをチクチク責め立てられるのも2回までと知っておけば、多少なりとも気が楽になるでしょうか?(笑)
 
 実のところ、指揮者として前に立ってみますと、みなさんそれぞれに弾ける・弾けないの個別事情があることは、いとも簡単にわかります。いかにうまく隠れたつもりでいても、残念ながらすべてバレています(笑)。ですので個別事情に捉われることなく、勇気をもってすべてさらけ出してください。さらけ出してくれさえすれば、後はすべて指揮者の領分です。なんとかします。どうにかこうにかTuttiとして進めるだけの引出しはあります。だから、任せてしまって丈夫。任せた後の指示内容を楽しみにしておいてください。その方が全体に隠れて“バカ試合”するよりもずっと楽です。楽でもあり、楽しく参加できます。視点を向ける先は、自分自身ではありません。Tutti全体・アンサンブルにこそです。Tuttiは全体練習ですから、自宅練習とは根本的に違う意識をもって臨んでください。同じフメンを前にして、同じ楽器を構えて音を出しますが、Tuttiの場では目的意図がまったく違います。
 

【Tuttiでの意識の持ちようについて】

 
 唐突ですが、少しイメージしてみてください。 場はTutti。指揮者が棒を振りおろし(ウマいヘタはこの際置いときますが)、ヨーイ・ドンで演奏が始まりました。と、フイに指揮者が振るのをやめました。ほどなく演奏が止まります。…ではここでクエスチョン。
 
 1.その瞬間あなたは何を考えていますか?
 
 2.それ以前にあなたはどのタイミングで演奏をやめましたか?
 
 誰にも答える必要のないクエスチョンです。普段の自分を思い返して、素直に、謙虚に、ありのままに想像してみてください。
 
 まずは1について。
 「あぁ音程ハズしたな…」「どうにもココで指がもつれるな…」「ボウイング逆やったな…」もしこういう答えだったなら、残念ながらすべてNGです。「ハラ減ったな」「休憩まだかな」これもアウト。なぜなら、意識が自分の方に向いているから。すべて個別事情でしかありません。
 そうではなくて、「なぜ指揮者は止めたんだろう?」コレです。コレこそがTHEあるべき姿・理想なんです。なぜなら、意識が自分自身の個人的な問題ではなく、全体アンサンブルに向いているから。なぜ演奏が止められたのか疑問を持つことで、直後に発せられるであろう指揮者のコトバに注意が向きます。もとより私語するヒマなんてありません。言われるよりも先に鉛筆を手にしているハズです。ピン…とした心地よい緊張感に満たされ、TuttiがTuttiとしてまとまる。アンサンブルが前に進む。そんなふうな積み重ねを繰り返し、音楽がよりよい方向に近づいていく。…こうなると楽しいと思いませんか?
 
 次に2について。
 先にも触れましたとおり、指揮者が振るのをやめたということは、その箇所で何かしらの問題が起こったということです。可能な限りスグに演奏を止めて楽器をおろし、続く指揮者のコトバに耳を傾ける必要があります。この反復がTuttiの本質であることについても、先に記したとおり。
 ただ現実的には、要所以外のところも含め、四六時中指揮を見ているわけではありません。指揮者の一挙手一投足に合わせてピタッと演奏が止まるなんてこともないでしょう。むしろ、そんな奏者ばかりの楽団であれば、指揮者はアチコチから浴びせられる視線の矢=目ヂカラの強さに辟易してキモチワルイ…もといある意味セクハラ…もとい居心地の悪さを感じてしまうだけです。最初から最後までずーっと指揮を見ていなさい、と言いたいわけではありません。
 個人的には、指揮者が振るのをやめてから演奏が止まるまでの時間の長さは、奏者の集中力の高さに反比例すると考えています。指揮を見ていようがいまいが、演奏に集中してさえいれば、指揮者が振るのをやめた際には、気配や空気で異変を感じ取り、自然と弓が止まるものですから。集中すべきはフメンではありません。その場に流れているアンサンブルそのものです。どのタイミングで演奏を止めるかについて明確な答えはありませんが、少なくとも狭い視野でフメンに集中していたり個別事情に捉われていない限り、アンサンブルにフタをして延々弾き続けてしまうことはないでしょう。アンテナを高く張っておくよう、心がけてください。
 
 そして、これとは逆に指揮者が振るのを止めない限りは、演奏が続くということも覚えておいてください。個別事情や個人判断で弓を止めて楽器を下ろすことは避けてください。いかにもマズいところだらけでタテも乱れかけてしっちゃかめっちゃかであっても、指揮者が棒を止めずに振り続けている限り、そこには何らかの意図があります。落ちてしまったとしても、すぐに切り替えていかに復帰するか考え、実践してください。程度問題ではありますが、Tuttiにおける練習進行のイニシアチブは、唯一楽器を奏でることなくアンサンブル全体を見渡している指揮者が掌握しているものです。
 
 となると、指揮者が発するコトバもまた、集団でアンサンブルする上では絶対です。Tuttiでつむぎ出される演奏には、都度変化する現象・問題があり、都度変化する課題・改善点があり、意識すべきポイントがあり、ゴールがあります。個々奏者がそれぞれに漫然とフメンをなぞり自由気ままに楽器を鳴らすだけでは、Tuttiは1つにまとまりません。そしてまた、毎回が同じ演奏になるハズがないので、その場に流れる音楽には、都度都度違いが存在します。それゆえ、指揮者のコトバを聞き逃すことは、アンサンブル阻害・Tutti放棄以外の何ものでもないという意識を、強く持っておきましょう。当然指揮者もまた、自らの発するコトバの重みを重々自覚しておく必要があります。覚悟をもって振りおろし、覚悟をもって演奏を止めなくてはなりません。
 
 よりよいTutti進行のためにも、演奏を止めた後はスグに楽器をおろし、全体に意識を向け、指揮者が発するコトバを聞き漏らさない習慣を身につけておきましょう。それはまず間違いなく的を射た、目からウロコ的な金言・至言のハズですから。指揮者に全権および全責任をなすりつけてしまえ!と言えばわかりやすいかと思います(笑)。それだけの重みを感じつつ、指揮者はそこにいるのが大前提ですので。
 演奏が止まると同時に個人事情の世界に入り込むことには、何の意味もないということ。場の流れと無関係に延々弾き続けることが、きわめて有害な所業であるということ。これら2つの絶対真理を個々奏者がしっかり意識しておけば、TuttiはTuttiとして効果的に前に進みます。この構図をぜひ、忘れないでいてください。
 

【Tuttiでの指揮者のコトバについて】

 
 話の流れ上、最後に補足を。 指揮者のコトバには「覚悟」が伴うと記しました。貴重な気づきを語っていることに疑いの余地はありません。すべてが金言・至言であるとも言いました。けれども、だからといって何でもかんでもフメンに書き溜めればいいかと言えば、それは違います。なぜならば、vioのTuttiにおいて指揮者の発するコトバには、大別して2種類あるからです。つまり、絶対的なコトバと対症療法的なコトバ。ここを知っておくこと、および選別して聞き分けるもまた大切ではないかと考えます。
 
 絶対的なコトバとは文字通り、いついかなる時にも変わることのない普遍的かつ本質的なコトバのこと。総じて言えば、曲の解釈や表現といった音楽性そのものに起因するものが多いです。vioに限らずほとんどの楽団の指揮者がそうだと思われますが、彼の心に内在する音楽性は、滅多なことでは変わりません。変わるとしたら、大抵カノジョができたとか宝くじが当たったとかの、いわゆる人生の一大事に直面した時くらいのもんです。それまでと言ってることが大きく変わっていたら、おおいにイジる・タカるなどしてみてください(いや、カルい冗句です)。指揮者その者が内包する音楽は、たいていの場合は普遍的かつ本質的に唯一無二のものです。ですので、指揮者の発するコトバのうちアナリーゼ内容や楽曲理解・音楽的解釈・場面比喩等については、イメージ共有に役立てる意味からも一言一句聞き漏らさないように努めてください。
 
 一方、対症療法的なコトバとは、Tuttiで指摘をする際わかりやすく伝えるためにデフォルメして伝えるだけのコトバのこと。vioで言えば、ppのところを「誰かが弾いてるから弾かなくてもいいですよ~」とか、音量が欲しいところで「ハッチャ!トゥ~リアンッ!みたいにっ!」とか「ショスタコーッ!ビッチッ!みたいにっ!」とか「どがばっしゃーん!と!」とか(以上いずれも実話)がそれに当たります。あるいはテンポを前目に…とか、後ろに引きずるかんじで…とかもそう。これらは直前の演奏のマズイところを大げさに表現し、わかりやすくデフォルメして改善につなげる、ただそれだけの意味合いしかないものです。いわばその時その場の演奏に対しての一時的かつ一期一会的なコトバです。それを後生大事にフメンにゴテゴテ書き込んでしまうと、アンサンブル精度が高まっていくにつれ有害な指示事項でしかなくなり、奇妙奇天烈でおかしなアンサンブルを生む元凶となってしまいます。
 
 ほとんどの奏者がフメンへの書き込みをボールペンやマジックではなく鉛筆で記していることと思われます。理由は人それぞれではあるでしょう。ただ「いつか消すかもしれない」ことを潜在的に念頭に置いているからこそ、鉛筆なんだろうなと思います。対症療法的なコトバが必要でなくなった際には、都度キチンと消しておくことですね。書き込みで真っ黒になったフメンは、いかにも「努力の結晶だぁ♪♪」あるいは「練習したぜぃヨッシャ~!」みたいに思えたりもするのですが、ただの錯覚・妄想でしかないことが多いものです。ゴチャゴチャ書き込んでしまったがために、真に重要なことが埋もれてしまうこともあり得ますので、ご注意を。もっとも、このへんにつきましては個々それぞれにおまかせします。
 
 以上、長々しい駄文にお付き合い有り難うございました。楽団メンバーそれぞれの気持ちひとつ、意識ひとつで、vioアンサンブルはぐんぐん向上していくことと信じています。願わくば、こういったところに留意しつつ、よきTuttiを。よきアンサンブルを。
 
 
 

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