2014/07/11

【練習参画意識について】



7/13(日)、vioの新年度がスタートします。これに先立ち、日頃のTuttiで思うところを記します。自己への戒めの意味も込めて。テーマは、楽団の中の一員として練習に臨むにあたり、どのようなことに留意するのか?について。

ルース・ベネディクトの名著「菊と刀」によると、我々日本人は、「恥の文化」の民族であり、西洋世界の人々は、「罪の文化」の民族だとされています。「恥の文化」は、人に迷惑をかけるような恥ずかしいことをしない、ということを道徳基準とします。一方、「罪の文化」では、神と人間との関係を重視し、宗教的戒律とか良心といったものを道徳基準とします。簡単に言うなら「恥の文化」は他人の目を気にする文化であり、「罪の文化」の方は神の目を気にする文化と言うことができます。

vioでの合奏の時間中、個々の奏者を見ていて気になるのは、音程・指回し・ボウイングこそが最大にして最終の目的であると考え、ある程度それが目立たない範囲内におさまっていればOKとしている点です。つまり、人目や体裁を気にして指摘されなければヨシとする「恥の文化」的な、いびつな風潮があるということ。極論すれば、減点法ですね。練習開始時に与えられた持ち点=100点が、合奏終了時になるべく多く残っていればいい。そんな消極的な発想です。

果たして合奏とは、そういうものでしょうか?

音程、ボウイングは手段であって、目的ではありません。当然、目標とすべき重大なテーマなんかでもありません。音楽を作ることは、もっと別のところにあるはずです。この際ハッキリさせておかなければいけないのは、僕も含めたアンサンブル参加者はみなタダの素人音楽家であり、上手であるはずがないという事実。上手に弾くことなんて、できません。素人が集まって、なんとかして音楽に接近しよう、楽しもうとしている。そここそがスタート地点であり、ありていに言えば、ド素人たちがいっちょ前に楽器を構え合奏の場に座っている時点で、持ち点100点は限りなく0点にまで落ちているということです。

そこから加算していくのです。

音程を外したことで、誰かを卒倒させ重篤な事態に至らしめてしまうでしょうか。ボウイングを間違えたことで法廷に召還され言われなき罪を着せられるのでしょうか。そんなこと、別にどうだっていい。大切なのは、下手クソ上等な素人たちが集い、楽器を構え、音楽を通じて「楽しい」という境地に達するか否か。まさにその一点のみのはずです。

大きな声で言うのも気が引けますが、合奏の合間に人目を気にしてボウイングを確認する私語が目立ちます。…非常に残念です。合奏の合間とは、練習中断を意味するものではありません。その間も、指揮者が前で貴重な気づきを語っています。あまりにも大きなボウイングの違いであれば、ちゃんと間違っているとの指摘が入ります。そこで直せばいいだけのこと。それが極論だとしても、少なくとも、練習進行の邪魔をして、貴重な気づきの言葉を無視して訂正すべきほどのことではありません。 

合奏に際し、つねづね思うのは、技術的なしばりから解放されて、まずは音楽的なこと、つまり楽しいことを目いっぱい描いていて欲しいということ。音楽とは、音を楽しむと書きます。譜面に記された音符や休符を実際に楽器で鳴らして、他のパート、他の人々と交錯する時間を楽しんでもらいたい。弾けないことを気にかける気持ちはあってもいい、けど、まずは楽しもうという思いを忘れないでいてほしい。その際、音程がずれていたら自分が気持ちよくないから直す。タテが揃わなければ自分がスッキリしないから合わせる。…決して誰かに指摘されることを恥じて(怖れて)、消極的に直すワケではないのです。

次回メインの最有力候補=Tchaikovskyの弦楽セレナード。指が速いわ、音域が高いわで、何かと大変だと思います。けど、指回しだけに気をとられて、音程取りにあくせくしすぎて、消極的にならないでほしい。いきなり全部弾けなくても、拍頭のただ1音だけついていくのもありでしょう。ぶっちゃけvioのアンサンブル力程度のレベルでこの曲がプロのCD並みに演奏できるとは思っていません。それよりも、個々の奏者がそれぞれに頑張って取り組んで、ただの1音だけでも納得のいく演奏を目指してもらいたい。少しでも多く、この曲の描く素晴らしい景色に出会って欲しい。僕はそう願っています。

毎回の練習日には、願わくば萎縮することなく、その時点での取り組み成果をさらけ出してほしい。家事や仕事の片手間に楽器を手に取り、単なる余暇活動として義務感や強制感とは無縁に音楽に触れているだけのお気楽素人演奏家である以上、弾けないのが当たり前。当然です。そんなことくらい、とうの昔にバレてます。生活をかけて、人生をかけて、コンクール入賞のためにあらゆることを犠牲にして、歯を食いしばって楽器や音楽に向き合っている人なんて、vioの中にはただの1人もいないんだから。

むしろ、逆に問いたい。僕を含めたvioの中に、Tchaikovskyの難しい譜面を正確に弾ける人がただの1人でもいるのかと。人目や体裁など気にする「恥の文化」的発想を持つ必要は、どこにもありません。

もちろん、個々に努力は必要です。個人でさらう段階においては、シビアに自己鍛錬すべきです。けど、合奏の場でも同じようなストイックな姿勢で臨めば、合奏そのものを楽しむことは困難となるのではないでしょうか。

なんのための余暇活動なのか。 

まずはある意味無責任に音楽を、合奏を楽しんでほしいのです。度が過ぎれば、必ずチェックが入ります。音楽的混乱を放置してそ知らぬ顔するほどの、無責任な練習進行はしません。弾けないことを罪に問うことは絶対にしません。弾けないところを、つまづいているところを、逆に教えてほしい。そして、そういった箇所に一緒に取り組みつつ、一緒にモノにしていきたいのです。

だから今よりもう少し腕を動かして。
もう少し大きな音で。

楽しみましょう。

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