2014/07/19

私的Beethoven考 PART.2「第九の3楽章に思う」



 さて、続編です。

 前回あれだけこきおろしておいて今さら言うのもなんですが… 。それでもやっぱりBeethovenはスゴイのです!じっくり聴き込んで、じっくり弾き込んで、根気強く接していくと、Mozartのように最初から天才だった人には絶対わからないであろう生身の人間の声、痛み、悲しみ、苦しみ、怒りなんかが、ダイレクトに胸に迫ってきて苦しくなってしまう。それはもう、ものすごいドラマがある。できることなら触れてほしくない心の闇とか、そっとフタをしておきたい気持ちとか、そういうドロドロした個人的な内面を、遠慮なく突っ付いてきてはえぐり出し、すべて表にさらけ出してしまう。時間をかけて彼の作品と付き合っていくと、そういう力がとてつもなく大きいということに気づかされます。

 もし僕がこの先とてもつらいことがあって、「もうダメだ」「ムリだよ」と感じることがあって、自ら命を絶とうとしてしまうほど追い詰められてしまったとしたら、その時には他の誰の作品でもなく、第九の3楽章を聴きたくなると思います。

 …なんてふうに言えば「へぇ、さぞかしいい曲なんだろうな」と思われるのだろうけど、みなさんご承知の通り、飛び抜けて素晴らしいワケではありません。Sibeliusの方がずっとドラマチックだし、Brahmsの方がよっぽどロマンティックです。Tchaikovskyの方がはるかに官能的だし、Dvorakの方が断然美しい。そこはいうてもやはりBeethoven、結局はどこまでもクドくてしつこい。「もうイイよ」「なげーよ」と思う部分だらけです。

 けど、それでいてじっくりと聴いていると、もうどうしようもないくらいに心が激しく揺さぶられてしまう。まるで諭すかのように同じ曲想を、何度でも、どこまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも…。

 「この人って、本気なんだ。純粋なんだ。」.

 そう思えてきて、胸がしめつけられてくる。もういい、わかった、それ以上言うな、て気になる。心のヒダを一枚一枚はがされていくような気持ちになるのです。冒頭ファゴットの沈み込んで浮き上がるようなモノローグのあと、わやわやほにゃほにゃと曲が流れ、突如としてシンコペで現れるビオラのパートソロを聴く頃には、もうどうしようもなくせつなさバリ全開です。そんな実直に慰めようとするなよ、泣けてくるじゃないか、やめてくれ…みたいな。
 ホント、どこまでも純粋無垢に、バカ正直に生き抜こうとした(?)彼の魂そのものが、ものすごく不器用なんだけど、とてつもなく愚鈍なんだけど、とにかく精いっぱいの誠意でもって、必死に何かを訴えかけようと、なりふりかまわずズンズンと心のど真ん中めがけて迫ってくる。聴いてる人がなんとか立ち直り、心からの笑顔を浮かべて顔を上げるまで、飽きることなく、ずっと。

 「急がなくていいよ。」
 「ゆっくり休めよ。」

 ぎこちないやさしさで、そう語りかけてくるような音楽。まるですべての魂に安らぎを与えるかのような、救済のための崇高な宗教曲のような。第九全楽章にそういった強いメッセージ性はありますが、中でも第3楽章はズバ抜けて突出している。けっして洗練されてもいないし、むしろ冗長すぎるきらいも多々あるくせに、ものすごい癒しのパワーに満ちている。かと思えば、いつまでもうなだれている弱気な心を見透かしたように、全Tuttiで奏されるアタマ抜けの3連譜音型。思い切って強い口調でバシッ!と鼓舞する。

 「しっかりしろよ!」
 「まだまだこれからだろ?」

 とでも言いたげに。 もしかしたらこれって、ほかならぬBeethoven自身が誰かにそう言ってもらいたかったんだとも思える。音楽家としての彼はともかくとして、実際の人間Beethovenは、決して満たされた人生を送っていたわけではなかったから。自分が欲しいと痛切に思って得られなかった充足感なんかをあるいは世界中の誰もが同じように求めているんじゃないかと考えたのかもしれない。

 「わかった、じゃあ僕が言ってあげる!」
 「ほら、どう?こんな安らぎ。いいでしょう?」

 …たとえば、そんなふうに。彼はとにかく人が好きだったらしいから、うまく言葉にできない思いを音楽に変えて、後世にまで残そうとしたのかもしれない。20分の長きに渡って、とうとうと語られる慈愛に満ちた世界。これを描こうとした彼の真意は、きっとそうだったのだ、としか思えない。

 もとよりこういうのは全部僕の勝手な思い込みと言ってしまえばそれまでだけど、でもそうでもなければこの3楽章の崇高な人類への愛を説明できないし、理解できない。

 合唱の入る第4楽章では言葉による直接的なメッセージが聞かれますが、管弦楽だけで思いの丈を表現しようとした第3楽章に、僕は強く魅かれます。上手に器用に生きられなかったであろう彼の、自分のことはひとまず脇に押しやっておいてでも、目の前でうなだれている誰かを力強く励まそうとする誠実さが、この音楽にはあふれている。

 聴力を失い、一度は死を選択しかけながらも、作曲することをやめなかった彼。ついにはこんな“全人類の至宝”とも呼べる曲を書き上げてしまうことになる。人付き合いが得意ではない、結果的に生涯独身を通してしまったカタブツ男。在りし日の彼に、何か楽しいことはあったんだろうか…。
 彼の音楽の持つものすごいパワーに触れながら、僕はよく、彼が実際に生きた日常や、生身の彼の思いをあれこれ想像します。人間としての彼は、どんな何を見て、感じて、考え、過ごしていたのだろうか?と。  僕を含めた後世の人々は彼を偉人と崇め、残した功績に賞賛を惜しまないながらも、現実の彼自身の胸中に思いを馳せることは、あまりないように思います。

 なのであえて今、あらためてリアルに考えてみる。

 もはや何も聞こえないというのに、それでも独りで部屋に引きこもって五線紙に向き合うのって、どうなんだろう?孤独?恐怖?それとも絶望?諦観?あるいは達観?…いったい、どんなふうだったんだろう?僕みたいなごくありふれた平凡な人間には、想像も出来ないものすごいエネルギーがいったと思う。身を切るような過酷な決意や覚悟、尽きない情熱がないと、できないと思う。あるいはうがった見方をすれば、逆にただの単純バカだったのかも知れない。

 いろんな思いをギュッとつめ込んで、ありったけの気力で一生懸命書き上げた曲があって、でもそれがどんな傑作であろうと、あるいは駄作であろうと、もう二度と自分の耳で聴いて味わうことも、確かめることすらできない。…そんなこと、僕に関して言えばありえないです。とうてい、想像もできない。悲しすぎるし、せつなすぎる。正直なところ彼の心中は、果たしてどういうものだったんだろう。もし今彼と話せるとしたら、ぜひそのあたりの実際を尋ねてみたい。

 第九初演時の有名なエピソードを。

 すでにまったく耳がきかなくなってしまっていた彼は、正指揮者を別に立てて、自分はテンポ指示を出すためだけに指揮台に上がりました。演奏が終わった瞬間に、どういうわけか彼自身は初演は失敗と思い込んでしまい、伏し目がちにうなだれて聴衆の方を向くことができませんでした。当然のことながら拍手なんかも聞こえず、聴衆の大喝采にぜんぜん気がつかなかったそうです。自信なげに、しばし目を伏せたままの彼。それを見かねたアルト歌手が、彼の手を取って聴衆の方を振り向かせた。そこではじめて彼は、熱狂する観衆の拍手を、聞こえずともその目でしっかりと見て、実感することができたのです。思いがけぬ大盛況に彼自身いったいどうしていいかわからず、こわばった表情のままで、身じろぎもせず、ただただ立ち尽くしていたのだとか。

 感動逸話のように語られているけれども、現実に彼の立場に身を置き換えたらいやはやなんとも、切なすぎる。

 結局これが最後の交響曲となり、ほどなく彼はこの世を去るのですが、

 「どう?いいもんでしょう、人間って。」

 第九を聴くたび、不器用ながらも一生けんめい音をつむぎつつ、ぶっきらぼうに語りかけてくる彼を感じます。

 「捨てたモンじゃないでしょう、人生って。」

 うまく言葉で伝える器用さがなかった分、音楽に乗せて精いっぱいそんな思いを届けようとしたのかな?たとえ自分で聴くことができないとわかっていても、彼なりの心を込めたメッセージを伝える手段として、作曲活動を続けるほかなかったのかな?

 第九は1時間を超えるとても長い作品だけど、彼はその至るところでものすごく純粋に、どこまでもあたたかく、不器用きわまりない表現で、何回も何回も同じことを繰り返し伝えようとしてきます。たぶんMozartならほんの数小節くらいで簡潔にまとめたであろう内容を、五線紙をいっぱい使って、膨大なインクと膨大な時間・労力を費やして、ひどく遠回りしながら。

 もしかしたら、彼は美しいハーモニーやとろけるようなメロディを書き記すことよりも、どうしても伝えたいメッセージがあって、それを後世の人々に残したかっただけなのかも知れない。そのための手段として、得意分野ではあった“音楽”を選んだだけなのかも知れない。だから、五線の上でカッコつける必要なんて、これっぽっちも感じてなかったのかも知れない。

 そして、本当に言いたいことがきちんと伝わったのかどうかを見届けることもせず、聞き届けることもできないまま、

 「もう行かなくちゃ。」
 「みんな元気でね。」
 「生きるんだよ。」

 なんてふうに言い残しておいて、ずっとあこがれ続けていた“天上の世界”に召されていってしまったように感じるんです。上手でなくても、ぶっきらぼうでしつこくても、とにかく彼は“本気”だった。そう思えてならないのです。

 

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