2014/06/04

指揮者の役割(あるべき姿)



 僕の基本的思想は、「指揮者は“支配者”ではなく“支援者”である」というもの。言うまでもなく指揮者は音を出しません。客席に背を向けることを許された唯一の者。彼は観客の存在を意識することなく、ただ奏者のためだけにそこに存在します。自ら音を発しないこともあって、シンプルに考えるならば、アンサンブルでつむぎ出される音のよしあしは、最初から最後まですべて奏者のパフォーマンスにかかっています。

 指揮者が精密機械であってはならない、とも考えています。斉藤秀雄の指揮法教程に記されているバトンテクニックを正確になぞり、正確な軌道で正確な打点を打つことに、さほど有意な何かはありません。大切なのは、それを見た奏者が音楽的な表現を実現できるのか否か、そして観客に感動や音楽的満足を与えられるか否か、ただただその一点のみです。

 換言すれば、観客は音楽を聴きに来ているのであって、指揮者の棒の正確な動きに感動することは有り得ません。

 ありがちなのが、奏者が「指揮の見方がわからない」と嘆くこと。これぞ、本末転倒の典型例でしょう。指揮法とはつまり、いかに奏者をまとめ上げるかを体系立てたメソッドに過ぎず、あくまでも演奏の補助的な役割を果たすものでなくてはなりません。指揮法についての知識を持たない奏者が戸惑うくらいなら、指揮者なんてものは存在しない方がよっぽどマシです。現に去年までのvioを含め、指揮者がいない方がザッツが揃い、音楽が活き活きと流れ出すという場面に僕は何度も遭遇してきた。

 繰り返します。アンサンブルする上で必要なのは、いかに音楽的な表現を実現するかしないかです。決して指揮に合わせて音を出すことなんかではありません。

 ここまで、いくらかパラドックス的な記述を行ってきました。ようするに、指揮者にとって重要なのは、奏者を“支配”し操作することではないのです。奏者が楽器に対して行うフィジカルな操作のジャマをすることなくいかにそれを“支援”し演奏の質を上げるか?

 そういう意味でも指揮者の運動とは、音楽のもつ波動・律動の中に自然に収まりつつ、必要な箇所で誰にとっても普遍的に「こうだ」と見える動きで、奏者の楽器に対する運動を支援するものでなくてはならない。

 こう考えてくると、指揮者にとって最も大切なことは、彼の持つ素晴らしいバトンテクニックではない。もちろんそれは必要なものではあるが、それだけでアンサンブルを揃え音楽的な表現を行うことはできないのではないかと。

 彼が花を見て美しいと感じ、それを言葉として表出し第3者に伝えられること。あるいは頬を過ぎる風を心地よく感じ、明るい陽射しに目を細め生きる喜びを感じること。もしくは絵画を描き、書を記す才能。折り紙でも千切り絵でも何でもいい、要は何かを“表現する”ことに興味を持ち、感性の息吹を発現できること。そして、そういったスキル的な部分以前にまずは、奏者への共感と深い敬意、作曲家や作品を心からリスペクトする謙虚さといった、一個の人間として持つべきもろもろのメンタル。…もし彼がそういった愛すべき人物であったなら、きっと素晴らしい指揮者としてアンサンブルを支援しまとめ上げることができるのではないかと。

 あーなんか抽象的過ぎるなあ。でも、けっこう大事な視点なんで、自身の覚え書きとして文章化しておきます。ヒヨっ子棒振りの戯れ言へのお付き合いありがとうございました。

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