2012/09/27

【vio】Bird Eye~音楽を俯瞰する

音楽演奏上のポイントの1つとして、譜面をBird Eyeで広く俯瞰するということについて。

 文学を例にとりましょう。ある物語を朗読する時、たいていの人の場合、何かしらの抑揚や間合いを取りながら読み上げると思います。文章情報は楽譜のそれよりも単純で、極論すれば文字と句読点しかありません。そこに何を付け加えて朗読者は朗読するのでしょうか?おそらくは、作者が文章に込めようとしたニュアンスを自分なりに汲み取り、それを表現しているのでしょう。

 音楽表現も、基本的に同じだと僕は思います。

 あるいは、人からもらったメールや手紙を読むとき。意図してか無意識かは別として、自然とその人の声で読んでいることはありませんか?そういう視点がなかったとしても、意図してその人の表情を浮かべながら、その人が語りかけているような感覚で文字を追うことは難しくないと思います。メールや手紙をくれた人が自分にとって近しい間柄であればあるほど(つまりその人のことをよく知っていればいるほど)、その度合いは強くなりますね。

 実は、これに似た感覚は楽譜を読むときにもあります。作曲家のことや作品のことを知っていればいるほど、その作品の描く世界観をより深く理解して表現できるものです。

 それでは、作曲家が楽譜に込めたニュアンス=つまりは作曲家の意図や作品の描く世界観をどのように汲み取っていけばいいのか?

 いわゆる“楽曲分析(アナリーゼ)”・“譜面解釈”と呼ばれる作業がこれに当たるのですが、そのためには音符単位の細かいものから、小節、フレーズ、楽章、または曲そのもの全体に至るまでの、楽典的・論理的な考察が必要となる場合があります。あるいは、時としてまとまった単位の複数の曲のセットにまで拡大させたり、作曲家のたどった人生の系譜や交友関係、作曲家の生きた世情・時代背景までをも分析対象にする場合もあります。

 これぞまさにBird Eye=視点を広げて作品を見つめ直すことで、見えてくる何かが存在するのです。なので一口に“作曲家の意図”と言っても、そこには様々なレベルの意図が存在するものだと思います。

 となると、作曲家のクセというかキャラクターというか、そういうものを感じ取る知識やセンスが重要になってきます。基本的には、漠然とは誰でも持っているセンスだと思います。たとえば近現代の前衛的な音楽=わかりやすいところでJanacekやShostakovichなんかを聴いて、Mozartの作品だと思う人は恐らくいないはずです。これは単なる比較によるものではなく、それぞれの(あるいはどちらか一方だけであっても)作品の持つキャラクターを自分なりにつかんでいて、たとえはっきりとした言葉には出来ないながらも、それぞれを別物と識別できるだけの素養を身につけているからだと思います。

 ちょっと余談になりますが、僕が折に触れてよく口にする「古典作品は純音楽的なものだから、情感をこめすぎてはダメ」という考え方も、ある種のステレオタイプな古典作品に対する“センス”の1つだと思います。それが正解であるか不正解であるかということはたいして重要ではありません。単に僕の中ではなんとなくそういうふうに識別しているという、一種の解釈(というか好み?)です。

 以前Haydnの弦楽四重奏曲第66番ト長調作品77-1を演った時に、敬虔な空気感に満ちた第2楽章をノンビブラートで演ってみてはどうか?と提案したことがありました。Haydn=古典=音楽のための音楽だから、情感込めて歌いすぎるとイビツに聴こえるんじゃないか?そんなふうに感じ、純粋に音を構築しようと思ったのです。けど、それは単に僕が思う音楽観にしか過ぎず、結果的にはビブラートを多用したっぷりと思いを込めて歌い上げるように演奏しました。それはそれでいいのです。アンサンブルしつつ完成を目指す過程ではTry&Errorがあってしかるべき、試行錯誤を重ねつつ音楽作りしていくのが自然ですから。広島カープ前監督のマーティ・ブラウン氏の言葉を借りて言えば「私は頑固者だが、愚者ではない」ってところですね。

 話を元に戻しましょう。

 どんな作品・作曲家であれ、クセやキャラクターを感じ取るセンスは、皆さんそれぞれに多少なりともあると思います。演奏に取り組む際には、漠然とでもかまいませんから、まずは各々そういった“イメージ”の源泉を大切にしてみるといいのではないかと。繰り返しますが、そこには正解も不正解もありません。人が違えば異なるイメージも出てくるのが当然です。

 そして、全体的な漠然とした作品のイメージがつかめたら、それをどのようにして音に翻訳していくのか考えてみる。いきなり細かい音符に目をやるのではなく、まずは全体の中の部分、次にフレーズ、小節単位でのアーティキュレーション、アゴーギクといった具合に。譜面に書かれてあるスラー、速度指定、「<」や「>」や「p」や「f」などといった記号を手がかりに、しかしあまりそれを信じ込むことなく時には疑ってかかってみるのもいいと思います。

 重要なのは、「pで弾く」とか「fで弾く」という盲目的な従順さではありません、何故「p」なのか、「f」なのか?「<」の「>」の行きつく先はどこなのか、どこからどのように、何故、向かう必要があるのか?それによって描かれる音楽的世界観にはどんな意味があるのか?…こういったことに対する自分なりの根拠を、漠然とではなく自分なりの文脈で持つということです。そうすると必然的に、譜面に書かれてある楽想記号だけでは情報が足りなさ過ぎるということに気づかれると思います。

 技術的な縛りを受けて窮屈に楽器を鳴らすのではなく、自分の描いたイメージ=作品世界の描く物語を表現するにはどんな技術が必要となるのか考える…。僕は技術至上主義者ではありませんから、曲づくりの上でもこういった作業をまず最優先に考えます。譜面をもとに音楽を作っていく楽しみが、そこにこそあると思うからです。演奏者である自分自身が楽しめなくて、どうして聴く人を楽しませられるのでしょうか?みたいな発想ですね。

 誤解のないように最後に少しだけ。

 覚えておいていただきたいのは、こういった偏狭解説は、あくまでも僕個人のセンスに基づくものであり、絶対的なものではないということです。あくまでも1つの考え方として、曲さらいの参考にしていただければと思っています。

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